ミッシェル・フーコー

もう20年以上も前に、フーコーが撮影した映画を観た。
日仏学館だったか、学院だったか記憶がない。
たぶん京都だから日仏学館(逆か?)だったと思う。
一家惨殺、尊属殺人を扱った社会学的フィールドワークというか、映像人類学のような、当時としては斬新な試みだった(というより、後にも先にもないのではないか?)。

精神障害は誰にでもある。
酒が過ぎて、睡眠不足が続き、なんとか大過なく仕事をやり過ごしているときなど、自分のアタマのなかはゴミだらけだと感じる。掃除してしまいたくなる。
それを表に出せない。そういう酷く荒れた生活をしていなくても、ある期間、針小棒大なつっかえが胸を占領することもある。これはデンパとでも言うしかない事態だろう。

障害が起きている、と認めたほうが楽になることがある。
精神障害である、はっきり言って。
しかし、この用語は、逆の働きをする。社会的言表としては。

つまるところ、社会に障害がある。「社会という病」があることを認めてかかった社会学的仕事は、フーコーの後、ほとんど現れていない。