「酔生夢死」の原義は巡る

アーカイブされたバックナンバーは最も古いもので2000年5月なのだが、カウンターはようやく292を指している。発刊の辞を見てもソ連崩壊云々などとあるので、おそらく2000年から続いているサイトであろう。カウントはリニューアル後のものかもしれないが、そうでなくても納得してしまいそうな鬱蒼としたそのサイトの名は「たこつぼ通信」。そこで「酔生夢死」についてのエッセイを見つけた。
『程子語録』を出典するとされるこの四字熟語、「有意義なことを一つもせず、むだに一生を終えること」とほとんどすべての辞書にある。が、このエッセイは、前後の句を丁寧に引用していた。

「雖高才明智、膠於見聞、酔生夢死、不自覚也」。

なかなか解釈は難しいところかもしれない。が、現象学的還元を免れた日常世界にむしろ一所懸命生きることこそが酔生夢死なのではないかと思わせる。
話は二重である。しかしここではこれ以上は止すことにする。
なんのために舌戦を避けてここに落ち着いたのか。
で最後をこのエッセイはこう結ぶのである。

 最後に、柳田國男の「山の人生」に出てくる話を紹介して終わりにしよう。
「世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)できり殺したことがあった。女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日も空手で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。目がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当たりの所にしゃがんで、頻りに何かしているので、そばへ行ってみたら一生懸命に仕事で使う大きな斧を磨いていた。おとう、これでわしたちを殺してくれと言ったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。この親爺がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。多分はどこかの村のすみに、まだ抜け殻のような存在を続けていることであろう。」

 ここには、「損」か「得」か、などということとは全く無縁な「人生の真相」がある。


と。