嫌な感じ

嫌な感じ」というのは、嫌なのではあるが、きっぱり抵抗してまでそこから逃れたいわけではない、生きた心地がしなくなるほどではない、などなどあいまいにやって来る気分、感情である。「なんとなく気が進まない」、よりは明確だが、「そんなこと嫌なこった!」 と切り捨てるような気持ちよりは、あいまいだ。

なんとなくではないのである。何が嫌な感じを与えるかは、はっきりしている。
なぜそれが嫌な感じなのか、説明しにくいだけである。

俺はこんなことをやっているような人間ではないのだ、といった自己像があるときそれを無視されるような条件下で何かをやらされる、と感じるとき。これは比較的わかりやすい嫌な感じの例だろう。

条件と言っても、ギャラとか客観的に数字で表されるようなものではない。だから、すこぶる主観的な感情なのだ。

そういうときは、自己像を捨てるなり、変えるなりすればいい。
あくまでも像である。ただし仕事、稼ぎに関する場合は、それで稼ぐことにはつながるという保障は必要だが。これがある場合は、たいてい像を変えるだけでうまくいく。嫌な感じは消えるだろう。消えないまでも、さほど気にならなくなるだろう。


自己を変えるのではない、自己像を変える のである。
それでも結果、「やってられっか!」になる場合は、まんまやってられないことはやらないで済ますことになる。しかし、これがなかなかできない。だから嫌な感じなのである。

閑話休題

アマゾンがそもそもそうなのだが、エントリで本を取り上げてリンクすると、関連書が表示される。これがなかなか良い。最新のエントリを書くと、その前の関連書は表示されなくなる。
これがちょっと残念だったりする。

そこで関連書のシリトリである。

声と現象 (ちくま学芸文庫)

声と現象 (ちくま学芸文庫)

このデリダの本は前田愛の『近代読者の成立』に触れた昨日エントリで表示された関連書。
一瞬えっ?と思ったが、内容は確かに「読む」ことと「書く」ことの深堀だ。
お見事である。

いったいどうやってリンクしてるのだろう? コンテンツまでさらってあるグループがあらかじめ人力でデータベースに格納されてひもづけされているのだろうか。

この関連書籍を見る楽しみだけでエントリしている人もいるのではないか。
いるわけないか。