純愛はエロい
「俺たちに明日はない」のスチールを久々に観て思ったことがある。
ボニーとクライドの濡れ場が描かれていたかどうか記憶がない。たぶんなかったのではないかと思う。そういう場面ではなくて、二人で追っ手に向けて反撃の銃口を向けている姿とか、そういう場面につられて、男と女には労り(いたわり)のセクースというものがあるということを思い出したという話(労りという漢字はあまり美しくない。労働の正反対のことなのに。かと言って、癒しと言うのも気が引ける)。
性愛には諸相がある。移ろう。移ろうからこその「諸相」であって、「諸」は単なる「色々な」ではない。「移りにけりな、いたづらに」の複数性は、たんに色々あるよ、ではないのだ。そこには道行(みちゆき)というものがある。
こういう「移りにけりな」は、いきなりのインターコース・ポルノが氾濫させるイメージにかき消されて、あやうく忘却の彼方に消えてしまいそうだ。
ほとんど全編がアクションと言っていい、ボニーとクライドの映像が、なぜそういう男と女の諸相を思い起こさせるのか。
ジョルジュ・バタイユのエロスの涙とも違う。違うが、エロティシズムというものがどういうものであり、それがどんなにエロティックなものであるかを語ることばが失われてしまおうとしている(バタイユにはまだ、少なくとも言葉に移そうという試みがあった)。
エロティシズムは実は「純愛」と言ってもいいのだった。
純愛というと単純に肉体的な接触のないプラトニックラブに短絡しがちだが、そんなことはない。それなら、最近の「エロい」という言葉遣いのほうが、むしろ短絡を救い、本来の純愛を救うだろう。
純愛はエロいのだから。
なんにしても、こういう男と女のフェーズを掬いとる言葉は失われつつある。
飯島愛? ねづこなでしこ? 蝦頭のChika? このあたりがまざりあって戦闘的なケミカルを起こして、ようやく、かろうじて、何かたった一行のエロ決め打ちをたたき出せるかどうか。
そういう土壇場に立たされている。
「純愛はエロい」背水の陣である。
なんてな(笑)。
俺たちに明日はない (カドカワ・スクリプトブック・シリーズ)
- 作者: D.ニューマン,R.ベントン,David Newman,Robert Benton
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1992/12
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